新説 『日本古代史研究』

ーわが国の歴史を取り戻すために

みんなで古代史を考える会 西山恒之

第二章 列島征服へと動き出した唐王朝

 第一節 『北史』と『南史』に見る歴史改竄
 
 大倭王と倭女王が記されていたように、三世紀頃、この列島には出雲と九州の二大勢力による統一王朝が誕生し、大きな勢力へと発展していきました。

 その実質的支配者であった出雲王朝は、隋や唐によって列島が卑下されたり、属国といったような扱いをされることに対して、断固とした抗議の意思を突きつけました。
 この列島の国名を『日本』と定めたのもその一貫でした。

 ところが、唐王朝は、そういった訴えを聞き入れるどころか、逆に歴史から出雲王朝の姿を抹殺してしまいました。
 つまり、歴史の改竄です。

 では、それが、どのような手口だったのか検証してみましょう。
 唐代に、この列島のことは、『梁書』、『晋書』、『隋書』、『北史』、『南史』、の五つの史書の中で描かれていますが、隋書以外には今までの史書と著しく異なる記述が見られます。
 その集大成とも言えるのが、六五九年、李延壽によって記された『北史』と『南史』です。唐王朝一族は李氏ですから、これらは、その王朝の歴史認識とされていたのでしょう。

《北史》
 『北史』で、この列島に関わる部分は、隋書を基本としていますが、そこにはかなり長い文章が二カ所付け加えられています。
 より詳しく描かれているかと言えば、そうではありません。今までの史書にあったことが、まったく歪められて挿入されています。
 
又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即俀王所都。
 魏志倭人伝にもあったように、大陸からこの列島にやって来る時に通過するいくつかの国の名前が書かれています。
 その次に、魏志倭人伝では、使者が伊都国にやってきて、そこを逗留地として主だった国を並列に紹介していたのですが、ところが、この北史では、それを直列にして紹介しています。
 たとえば、『京都市から南西百キロに和歌山市、東百キロに名古屋市、南五十キロに奈良市がある』という紹介があったとします。それを、『京都市から南西百キロに和歌山市があり、さらに東へ百キロ行くと名古屋市があり、さらに南へ五十キロ行くと奈良市がある』という紹介に変えられているようなものです。そうなりますと『奈良市』は、太平洋上にあったことになってしまいます。
 その上、魏志倭人伝では、倭女王が居た『邪馬壹国』という国名を、北史では『邪馬臺国』と書き換えています。そこには大倭王(王)が居たとまで変えています。
 『北史』では、出雲にあったこの列島の都が、卑弥呼の居た『邪馬壹国』の地に移されただけでなく、さらにとんでもない場所に飛ばされています。この列島の都だった出雲の地の抹殺です。

魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢。魏主假金印紫綬。
 魏志倭人伝で、景初二年に魏へ使者を送ったとありましたが、それを景初三年に変えています。
 先にも触れましたが、景初三年の正月に明帝が亡くなっています。喪に服している景初三年に魏へ朝貢したとする説が今のわが国にもありますが、歴史を都合よく変えていると言わざるを得ません。
 ですから、北史では、正始元年に倭王へ使者を送ったことについては触れていません。

復立卑彌呼宗女臺與爲王
 さらに、『卑弥呼』の次に女王となったのは、『壹與』とありましたが、それを『臺與』としています。
 『邪馬壹国』や『壹與』などの『壹』、つまり『一』を意味するものも消しています。
 
其王與清。來貢方物。此後遂絶
 隋書では、この『清』と『來』の間に、倭王と使者清が会談の折に交わした言葉がありますが、それをばっさりと削ってしまいました。
 すると、その王と清は、方物を持って朝貢に来たという意味になってしまいます。
 出雲王朝の大王の言葉を載せるということすら、彼等にとっては許せなかったということなのでしょうか。
 徹底した出雲王朝の歴史からの抹殺です。

《南史》
 『南史』は、宋書を基本としていますが、北史と同様で、その宋書の前後に、また文章が加えられています。
 元々の宋書には、倭の五王といわれるこの列島の大倭王についてのみ描かれていて、それ以外のことは何も書かれていませんでした。ところが、南史では、風習や隣国についての紹介が加えられています。

其南有侏儒國、人長四尺。又南有黒齒國、裸國
 一番の問題点は、その大倭王の国の南に、『卑弥呼』が居た『邪馬壹国』の南にあった国を紹介しているということです。そうなりますと、その大倭王は、まるで『卑弥呼』と同じ場所にいたことになってしまいます。『南史』では、この列島の都だった出雲に居た大倭王が、『卑弥呼』の地、九州に存在していたように描かれています。
 極めて巧妙なすり替えです。
 では、どうして、このような歴史の改竄といったことをする必要があったのでしょうか。
 まず、当時の唐王朝の流れを見ることにしましょう。