新説 『日本古代史研究』

ーわが国の歴史を取り戻すために

みんなで古代史を考える会 西山恒之

第一章 『日本国』誕生まで

第三節 『日本国』と改名

 当時、およそ四百年という歴史を誇る出雲王朝や大倭王に対して、隋から訓令や朝命が下されるなどと、この列島は、その隋の支配下にあるがごとくの扱いを受けていました。これは、出雲王朝にあっては、耐え難い屈辱であったのかもしれません。
 漢書にも書かれていたように、この列島に住む人々は、『倭人』と呼ばれ卑下されていました。『倭人』とは、遠い南海の孤島に住む小さい人々といった、大陸の王朝からの蔑称です。
 また、大陸の皇帝制度にあっては、自国の中にあっても差別支配が徹底されていました。それは、人の逝去にも表されています。皇帝は『崩』、諸侯は『』、大夫は『卒』、士は『不禄』、庶民や奴婢は『死』とされていました。
 この列島の女王が亡くなり、それを魏志倭人伝では『卑弥呼以死』と記されました。たとえこの列島の女王であっても所詮倭人でしかなく、奴隷並みに『死』と描かれています。また、その『卑弥呼』という表記そのものが卑下したものでもあります。女王ですらそんな扱いですから、庶民に至っては『東夷』などと殆ど獣扱いでしかありません。
 『邪馬壹国』、あるいは『邪馬臺国』という表現もそうです。ほとんど、邪悪な騎馬民族だとでも言っているようです。
 その大陸の王朝が統一されて、さらに権威を振りかざして朝命を下して来る訳です。そんな理不尽な命令に従うなどということは、長い歴史を誇る出雲王朝にとっては、有り得ないことだったようです。
 それゆえ、隋に対して国書で以って対等な立場を表明したため、国交断絶となってしまいましたが、新たに誕生した唐とはどういった関係を築いたのでしょう。

《旧唐書》
 隋の後、唐が六一八年に建国されて、当時、世界最大の帝国を築いたものの九〇七年に滅んでいます。その唐の歴史を記した旧唐書が、九四五年、後晋時代に作成されました。

倭國者、古倭奴國也。
 その倭国伝では、『倭国は、古の倭奴国なり』で始まっています。つまり、後漢書にも登場していた金印を授かったという『倭奴国』を意味しているようです。
 
四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之。設官有十二等。  
 
当時、五十余国に分かれていましたが、みな倭國に付属していたとあります。これまで検証してきたように、大倭王、つまり出雲王朝にこの列島が制覇されていたことを意味しているようです。
 そして、その大倭王の姓は『天』で、『一大率』といった検察機構があり、官位が十二等級あったと隋書と同様の記述があります。
 
貞觀五年、遣使獻方物。
 
簡単にこの列島の姿が紹介された後、貞観五年(六三一)に使者が送られ、方物を献上したとあります。
 六一八年に李淵が唐を建国していますが、すでに第二代太宗、李世民の時代になっていました。
 出雲王朝は、隋との確執もあり、大陸の王朝とはあまり関係を持ちたいとも思っていなかったのかもしれません。しかし、唐の世情も落ちついたと見たのでしょうか、一応儀礼の使者を送り方物も献上したようです。大陸の王朝が、新しく替わりましたから、出雲王朝としては、とりあえずの様子見といったところでしょうか。

太宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。  
 それに対し、太宗は、唐の都までの道のりがあまりに遠いので、朝貢に来る必要はないと、使者を送ります。唐王朝としては、もはやこの列島からの朝貢など不要だということなのでしょう。
 ところが、その使者は、大倭王のもとへと来たのですが、『王子』と礼を争い、朝命を宣することなく帰ってしまいました。『礼』を争ったということは、出雲王朝としてどうしても納得のいかないことがあったようです。
 それは、隋の時代と同様、唐王朝からも『朝命』という形で、この列島が属国扱いされたことに対する反発だったと考えられます。唐の支配下になどないのに、どうして『朝命』など受ける謂れがあるのかというようなことではなかったかと思われます。
 ですから、そんな『朝命』など聞き入れないと拒否したため、使者は大倭王に会うこともなく帰国したということなのでしょう。
 出雲王朝は、隋に引き続き、唐からもこの列島が卑下され属国扱いされたことに対し、毅然とした姿勢を見せたことがうかがえます。

至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。
 
唐の使者と礼を争って後、貞観二十二年(六四八)に、出雲王朝は、唐へ使者を送ります。

 今回は、新羅と共に行っています。他国の使者と共に行くといった記述は他に見かけることはありませんから、出雲王朝としては、相当な覚悟で望んだのでしょう。

日本國者、倭國之別種也。
 中国の史書において、初めて『日本国』が登場しました。
 その使者は、『日本国』の誕生を唐へ伝える目的で派遣されたようです。
 『日本国は、倭国とは別種である』
 ここでは、日本国と倭國とは民族が異なると述べています。
 つまり隋書で、大倭王が自らを『夷人』としていたように、出雲王朝の勢力は、在来の『倭人』とは別種だとしています。


以其國在日邊、故以日本爲名。

 
『その国は、日の辺りに在るを以って日本という名前にした』とあります。この列島を意味する『日本』とは、出雲の地にあった『日』がその起源だとここで述べています。
 『日』とは、隋書にも登場しました。倭王は、『天』を以って兄と為し、『日』を以って『弟』と為すとありました。つまり、それは、国家的象徴であるところの『天』と、実質的支配者であるところの『日』という意味でもありました。
 それが、出雲の地にあったということになります。
 では、それが出雲のどこにあったのでしょう。
 まず、『天』、それは『天照』でもありますが、出雲の地にあって天高く聳える所から照らしていたと言えば、出雲大社の地ということになります。そこには、三十二丈、およそ百メートルはあったと言われる神殿がありました。出雲大社の境内の地中から、その心柱も発見されています。その高層の神殿において、『天照』が、国家的象徴として奉られていたと考えられます。
 次に、『日』ですが、今でこそ島根半島は本州と繋がっていますが、古代にあっては島でした。その島と、本州が一番接近している所が、東出雲にあたります。
 そこでは、出雲国庁跡が発見されています。その場所は、出雲国一宮『熊野大社』の前を流れる意宇川の下流域にあたります。また、近くには、スサノオ尊が『やまたのおろち』を退治した後、稲田姫と共に居を構えた場所とされる八重垣神社もあります。
 つまり、出雲の勢力にとっては、一番歴史的な場所になります。
 その熊野大社には、スサノオ尊を始め、イザナギ命やイザナミ命など出雲の勢力にとっては始祖神とされる神々が奉られており、『日本日之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という別名も残されています。
 彼等にとっては、『聖地』とも言えるこの東出雲の地こそが、三世紀以降七世紀に至るまでの間、この列島の中枢だったと考えられます。今で言えば、中央官庁ひしめく永田町といったところでしょうか。
 その地が、『日』であり、また、この列島の一番の中心だということで『日本(ひのもと)』と名づけられ、それが国名の由来になったと記しています。同様に、今だと『永田国』となるのでしょうか。
 その南には、『日野』とか、『日南』といった地名もあり、その名残だと考えられます。

或云日本舊小國、併倭國之地。
 
さらに、『日本』は、古くは小国だったが、倭國の地を併せたとも述べています。
 これは、後漢書や宋書にもありましたが、倭王は西に東に国を平定していったということを意味しているようです。
 彼等なりに、その成り立ちの歴史を述べたのでしょう。


其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。 
 
出雲王朝の使者から、唐に対し、この列島に対する蔑視、あるいはその属国的扱いの清算を突きつけたといった内容が述べられています。しかし、その使者は、大きなことを言うが実がなく、唐は疑ったとあります。『大唐帝国』としては、そんな話を『はい、そうですか』などと聞けるはずがないといったことのようです。
 皇帝という特別な存在があるということは、他の人々を蔑むということと表裏一体を為しています。この列島にいくら長い歴史を持つ王朝があろうとも、唐王朝にとっては、所詮倭人であり、東夷でしかありません。
 唐は、抗議とも言える出雲王朝の訴えを聞き入れるどころか、自らのテリトリーにそんな反抗するような国が存在する事自体許さないと考えたのかもしれません。
 しかし、旧唐書を検証することにより、『日本』という国名には、この列島の人々が卑下され、あるいは属国的扱いを受けていたことに対して、敢然と戦った出雲王朝の思いが込められていることが分かりました。
 では、このような激しい様相を見せる、唐王朝とこの列島に誕生したばかりの新生『日本国』ですが、この先、一体どういったことになるのでしょう。