新説 『日本古代史研究』

ーわが国の歴史を取り戻すために

みんなで古代史を考える会 西山恒之

第一章 『日本国』誕生まで

第二節 大陸の王朝との軋轢  

 大陸の王朝が分裂している時期にあっては、この列島から行く朝貢も、その思惑からか歓迎されてもいました。大陸の王朝からすれば、遠い南海にまでもその支配力が及んでいることを誇示できます。一方、この列島の勢力にしてみれば、大陸の王朝からお墨付をいただくといったこともあったのでしょう。

 しかし、この列島の勢力も大きく発展し、列島のみならず朝鮮半島をもその勢力下にするようになりますと、大陸の王朝の権威を借りる必要性も薄れてきます。
 他方、大陸の王朝が統一されますと、分裂していた頃と違い、そんな南海の孤島からの朝貢など特に必要としなくなります。むしろ、この列島は自分達のテリトリーだといった、大陸の王朝の権威を振りかざした大国主義的な傾向が強まっていったことも考えられます。今で言うならば、アメリカが、カリブ海をまるで自らの庭と考えるようなものでしょうか。
 それでなくても、大陸の王朝は、歴代この列島を卑下していましたから、なお一層そういった視点が強まったとも言えます。
 
《隋書》

 いくつにも分裂を繰り返していた大陸の王朝ですが、五八九年に統一されて隋が誕生します。
 
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
 宋書で、この列島は大倭王の勢力によって統一されていたように描かれていましたが、この隋書にもそういったことが記されています。
 その国は、東西を行くのに五か月、南北を行くのに三か月と、その範囲を表しています。また、東西南北が、それぞれ海に至り、地勢は、東が高くて西は低いとも述べています。およそ、この列島の全域を支配していたことがうかがわれます。
 そして、その都は、『邪靡堆』にあり、魏志倭人伝にも登場している『邪馬臺』でもあるとしています。つまり、この列島の都は、魏志倭人伝の頃からこの隋書の頃に至るまで同じ場所にあったと述べています。ということは、魏志倭人伝に登場している倭王のいた所が、この列島の都だということになります。
 魏志倭人伝と後漢書には、倭王と倭女王という二大勢力が描かれていました。そして、その倭王のところに魏の使者が行くことを表現するのに、『詣』という文字が使われていました。倭王はこの列島の都にいるような表現がされています。
 倭女王は、あくまでも九州がそのエリアと
されていましたし、宋書の段階では、その記述すら消えています。
 つまり、魏志倭人伝に登場した倭王の地が『邪馬臺』だと、隋書にあっても確認していることになります。
 では、ここでこの列島の都がどこにあったのかということになりますが、その地は出雲だと考えられます。
 正始元年に、魏がこの列島の大倭王のところに使者を送ったことは、すでに触れました。その折に、銅鏡が授けられているのですが、その時の物と考えられる銅鏡が出雲の地で発掘されています。
 島根県大原郡加茂町神原、今は合併して雲南市になっています。 地理的には、三五八本もの銅剣の発見された荒神谷遺跡や、三十九個の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の東南に位置し、斐伊川の支流の赤川沿いで『神原神社古墳』が発見されました。一九七二年八月、その赤川護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発掘され、その竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして『三角縁神獣鏡』と言われる中国製の銅鏡も埋葬されていました。
 その直径約二十三センチの『三角縁神獣鏡』には、『景初三年陳是作』という銘文が刻まれていました。
 この銅鏡は、『卑弥呼』から渡ったとも言われているのですが、それはあり得ません。つまり、『卑弥呼』の使者が魏へ行ったのは景初二年でしたから、その時には、まだこの『景初三年』の銅鏡は造られていません。『景初三年』に作成された銅鏡が、翌年正始元年に大倭王のもとへ届けられていると考えられます。
 そして、その大倭王の地は、隋書においても当時からの都だと記されました。
 すなわち、出雲の地こそが、三世紀頃から続くこの列島の都だということになります。
 それは、この列島の都であるところの『邪馬臺国』、すなわち『邪馬台国』が、出雲を意味していたことにも繋がります。
 

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
 さて、その大倭王が、開皇二十年(六〇〇)、隋に使者を送ります。
 その使者が答えて言うには、大倭王の姓は『阿毎』、字が『多利思比孤』とあります。その音からしますと、『天照彦』と読むことができます。この列島の大倭王の姓は、『天』であり、『天』は、その王朝の象徴でもあったようです。

使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。
 その使者によると、倭王は『天』を以って兄と為し、『日』を以って弟と為すと述べています。そして、『天』は、夜が明けるとともに、『我弟に委ねん』と言うともあります。
 隋とは初対面だということで、この列島の統治システムについて、あるいは国家理念ともいうようなことが述べられています。
 この兄と弟というのは肉親関係を意味するのではなく、その権力機構の関係を言い表したものと考えられます。兄であるところの『天』は、日の出とともに弟に全権を委ねるということです。
 つまり、『天』とは国家的象徴であり、実質的権力者は弟であるところの『日』だということになります。今で言えば、天皇と内閣総理大臣といった関係に相当するのかもしれません。
 この関係は、魏志倭人伝にも出てきます。

 
有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者
 『卑弥呼』には、弟があって国を補佐して治めているとあります。また、王となって後は、その姿を見た者は少ないとも記しています。
 ここに、後の支配機構の原型があるとも言えます。神がかり的な女王がいて、その言葉を伝え、また実質的な支配者がその横にいたということを意味しているようです。

「此太無義理」於是訓令改之。
 『天』と『日』といったこの列島の国家システムについて使者が述べたのに対し、高祖(文帝)は、それが道理に合わないと訓令で以って改めさせたとあります。
 しかし、この列島の大倭王、つまり出雲王朝は、三世紀以降およそ四百年の歴史を誇っています。ですから出雲王朝は、最近誕生したばかりの王朝から、訓令でもって国家体制を改めろなどと命令されることに納得がいかなかったとも考えられます。
 ただ、そのすぐ後の文章には、隋以後、倭王が冠を被るようになったなどと、ある程度は聞き入れていたようにも描かれています。
 しかし、その記述とは裏腹に、出雲王朝は、隋に対して、決してその支配下などにはないという対応をしています。
  
其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。 
 大倭王は、大業三年(六〇七)に、また使者を送ります。六〇四年に隋の第二代皇帝煬帝が即位していますから、その祝意も込めた使者であったのかもしれません。
 ところが、その使者に託された国書は極めて挑発的なものでした。
 これは、よく登場しますが、『日出るところの天子、日没するところの天子に書を致す恙無しや』といった文面が隋の皇帝に届けられたのです。暴君と名高い煬帝の即位にあたって、倭王は、『あなたも天子なら、私も天子である』と対等の意思表示をしたということになります。
 出雲王朝にあっては、たとえ相手が大陸の王朝であったとしても、属国扱いされる謂れはないという強い思いがあったようです。

「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」
 
大陸の王朝は歴代この列島を卑下し、隋王朝も出雲王朝に対して訓令を発するなど、その支配下にあるという姿勢を示していました。
 その隋の姿勢に対し、出雲王朝は属国扱いをするなと敢然と立ち向かうのですが、隋王朝は、『野蛮な夷人から無礼な書が届いたが、二度と聞き入れるな』と激怒します。
 そして、その翌年、隋は大倭王のもとへ使者を送ります。
 
其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請即戒塗」
 出雲王朝は、その使者清を歓迎し、倭王と使者が会談もしています。
 清は、会談後、人を介して倭王に『朝命は達した。即、塗(みち)を戒めよ』と伝えています。朝命ですから、あくまで隋は、出雲王朝に対して命令をしていることになります。それも、出雲王朝のあり方を変えろと命令しているわけです。
 先の国書にあったような、対等の立場を表明するなど以ての外だということなのでしょう。隋に服従しろという大国主義をむき出しにした姿であるとも言えます。

此後遂絶
 隋書は、この四文字で終わっています。
 つまり、この後、国交を断絶したということなのでしょう。隋は、この列島に対してその権威を押し付けようとし、この列島の出雲王朝は、そのような理不尽な命令を受ける筋合いはないと、双方の権威がぶつかり合い、その結果国交断絶となってしまいました。
 ところが、隋は、この後十年も経たずして、隋の武将、李淵に滅ぼされてしまいます。部下によるクーデターといったところでしょうか。
 その李淵の建国した唐と出雲王朝ですが、さらに険しい関係へと進んでいきます。