新説 『日本古代史研究』

ーわが国の歴史を取り戻すために

みんなで古代史を考える会 西山恒之

第一章 『日本国』誕生まで

第一節 大倭王と倭女王の二大勢力が存在

弥生時代と言われている頃の、この列島の姿は、今に残されている遺跡か、文献としては中国の史書に頼らざるを得ません。ということで、まずは、その史書からこの列島の当時の姿を検証してみましょう。

《漢書》
 中国の史書において、最初にこの列島が描かれたのは、紀元一世紀頃、後漢の時代に作成された『漢書』でした。

 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
 その漢書では、この一行だけが記されているのですが、それでも、ここからは多くのことが読み取れます。
 まず、この列島に住む人々は『倭人』と呼ばれていました。これは、大陸の王朝から見たこの列島を卑下した表現で、その蔑視する視点が、後々まで影響することになりました。すべては、ここから始まっていたと言っても良いかもしれません。
 また、この列島は百余国に分かれていて、朝貢にも訪れていたとあります。この頃から、大陸との交流はあったのですが、それは対等の関係とは程遠いものであったことも分かります。

《三国志魏書》

 この書の中にある東夷伝倭人の条が、所謂『魏志倭人伝』と呼ばれているものです。
 『東夷』とは、東方の穴ぐらに住む狢(むじな)といった意味です。漢書以来、大陸の王朝は、周辺民族を獣並みにしか見ていませんでした。

 そういった蔑視した視点による史書ではありますが、そこにはこの列島の姿がかなり詳しく述べられています。
 
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
 その中で、この列島へは、対馬国、一大国、末盧国を経て、伊都国に至るとあります。
 北九州地域についての記述です。

 それぞれの国には代々王がいるが、皆『女王国』に属していたとあり、ここで、この列島には『女王国』があったという認識が示されています。
 また、魏国の帯方郡の使者が往来していて、伊都国に常駐していたともあります。

 今で言えば、大使館といったところでしょうか。

東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。   
 そして、その伊都国から東南に百里行くと『奴国』があるとしています。
 同様に、伊都国から東へ百里行くと『不弥国』があり、あるいは、南に水行、つまり船で二十日行くと『投馬国』があったとも述べています。同じく、南に船で十日、あるいは陸を一ヶ月行くと『邪馬壹国』、女王の都に達するとしています。

 つまり、魏の使者が常駐する伊都国の南に、北九州地域を従える女王国である『邪馬壹国』があったと記しています。
 これが、現在、『邪馬台国』だとして論じられているのですが、この魏書にあっては、『邪馬壹国』とあります。
 つまり、この『壹』とは、『一』を意味する文字です。
 この女王国は『一国』だと、ここでは述べています。 

正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王
 また、この列島には、倭女王だけでなく倭王が居たとも記されています。
 正始元年、西暦二四〇年、魏の使者が倭国を詣でて倭王に会い、詔書や印綬、併せて金や錦、刀、鏡などが渡されています。

 これを受けて、倭王は、正始四年に答礼の使者を送っています。 
 大陸の王朝が、この列島に対して卑下した視点を持っている中で、この倭王にだけは、他とは異なる視点や対応をしていることがうかがえます。つまり、倭王に対して『拝』、『奉』といった、仰ぎ見る文字で記述しているということです。その記述の中で一番目を引くのは、『詣倭國』というところです。『詣』という文字は、魏の皇帝の居する都である『臺』へ行くことを表現するのに使われています。
 すなわち、魏は、この倭王を、この列島の皇帝、あるいはそれに近い王だと見なしていたのかもしれません。そもそも、この列島から朝貢することはあっても、大陸の王朝から先に使節を送るというのはかなり異例のことでした。
 それは、当時の魏国の事情によるものだと考えられます。
 景初三年(二三九)の正月に、魏の皇帝が亡くなっています。その年、魏は喪に服しており、まだ八才の斉王が即位しています。喪が明けて翌年、正始元年、その新体制になっての訪問です。
 また、景初二年(二三八)に、『邪馬壹国』の女王『卑弥呼』が、魏に使者を送っており、その折に『卑弥呼』へ詔書や印綬の他、銅鏡などが授けられていたこともその背景にはあるのでしょう。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺
 また、女王国の国名が『邪馬壹国』とありましたが、その『壹』は、『臺』とすべきところを『壹』と書き間違えているという説もよく見受けられます。
 しかし、ここでは『卑弥呼』が亡くなって次の女王の名前が『壹與』とされています。その『壹與』は、魏の使者を送り届けた折に、『壹與』の使者が、『臺』に詣でたとも記しています。当たり前のことですが、『壹』と『臺』が明確に使い分けられています。
 それは、『壹』と『臺』とその文字の意味がまったく異なるのですから、当然と言えば当然のことです。今で言えば、『太平洋』と書くべきところを『犬平洋』と歴史研究家が書いたというようなことで、いくら似たような文字だと言っても、あり得ないことです。
 むしろ、その女王国は、『邪馬壹国』、つまり『一』でなければならないといったことが、この後に出てきます。

國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
 この列島の国々において『市』が開かれ交易が行われていたようですが、それを『大倭』が監視しているとあります。『大』という倭が強力な支配力を持っていたと書かれています。
 さらに、『一大率』が、諸国を検察していたともあります。ここに、当時のこの列島の国家権力的な機関が描かれています。それが『一大率』という『一』と『大』の統一を意味するような名称となっています。
 先にも、『一大国』とありましたように、当時、この『一』と『大』という二つの大きな勢力があり、それはまったく別々ではなく、統一した国家を構成していたということも見えてきました。
 そして、『一』よりも『大』の方が、強力な支配力を持っていたこともうかがえます。

 
《後漢書》
 魏志倭人伝では、この列島には二つの大きな勢力があったと思われる記述がありましたが、この後漢書ではさらにそのことが明記されています。後漢書は、五世紀に入って完成しています。

倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。  
 
その倭人伝の冒頭で、この列島には魏志倭人伝の記述と同様、百余りの国があり、三十国ほどと国交しているとあります。そして、この列島の大倭王が、『邪馬臺国』に居すると、ここで中国の史書において、初めて『邪馬臺国』が登場しました。
 その大倭王の武帝は、この列島のみならず、朝鮮半島をも制覇していたと記しています。ですから、その名称も『武帝』、つまり皇帝だと見なしています。そうなりますと、皇帝の居するところですから、それは『臺』であり『邪馬臺国』となるわけです。
 では、魏志倭人伝に登場していた『卑弥呼』は、後漢書ではどう描かれているのでしょう。

自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王
 女王国より東に海を渡って行くと国があるが、女王国には属していないとあります。つまり、女王国は、九州をエリアとしていたとなります。
 すなわち、魏志倭人伝と同様に、後漢書も大倭王と倭女王という二大勢力があったという記述になっています。
 
《宋書》
 後漢書の後、五世紀末に南朝宋の史書が完成しています。そこには、さらに大きく発展したこの列島の勢力のことが描かれています。

自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。
 宋書では、『倭の五王』と呼ばれていた『讃、珍、済、興、武』について記されています。
 ここで、この列島の大倭王の名前が初めて登場しました。
 しかし、それ以外、この列島の風習だとか、女王国についての記述などもありません。

 その大倭王たちは、それぞれ少し異なりますが、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王と自称していたとあります。
 後漢書でも倭王武について触れていましたが、ここではさらに詳しく述べています。
 倭王武は、昇明二年(四七八)に、宋の順帝へ上表文を送っています。

順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。…(以下上表文は続く)
 それによると、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』といったことを述べています。
 四世紀から五世紀にかけて、大倭王は朝鮮半島をもその勢力下に置いて、さらに大きな力を持つ勢力へと発展していた様子が描かれています。

 その上表文では、順帝に対して、高句麗を討つようにも奨めています。倭王が、朝鮮半島まで勢力を拡げていたものの、高句麗と対峙していたようです。
 これは、好太王碑に記されている記述とも合致します。