
隋書を検討したところでも触れましたが、神社の歴史や中国の史書を調べることで、実は邪馬台国とは出雲を意味していたということが分かりました。
ところが、その出雲の地でそれを証明する物が発見されていたのです。
島根県大原郡加茂町神原。
今は合併して雲南市になっています。
地理的には、358本の銅剣の発見された荒神谷遺跡や、39個の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の東南に位置し、斐伊川の支流の赤川沿いに『神原神社古墳』があります。
1972年8月、その赤川護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発見され、竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして三角縁神獣鏡と言われる中国製の銅鏡が発見されたのです。
その直径約23センチの三角縁神獣鏡には、『景初3年陳是作』という銘文が刻まれていました。
この発見は、実は、わが国の歴史を変えるほどの大きな意味を持っていたのです。
その銅鏡には魏の年号で「景初3年」と記されていたので、三国志魏書、つまり魏志倭人伝に卑弥呼が魏から銅鏡を百枚授かったという記載があり、その内の1枚ではないかとも言われています。
では、魏書にあるその部分を見てみましょう。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰:『制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。臣松之以為地應為綈、漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳寫者誤也。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。』
ここに記述されているところでは、景初2年6月に倭女王が、大夫難升米を魏へ派遣したとあります。
そして、まず朝鮮半島にあった帯方郡に行き、天子への朝貢を申し出て、そこの太守劉夏が官吏を遣わし、使者を送って都に詣でたとあります。
同年12月には、詔書や多くの品々が卑弥呼に贈られています。
その中には、金印を初め、織物や金、真珠、そして、銅鏡が百枚贈られたとあります。
そして、卑弥呼に、使者が持ち帰ったら、その品々は魏が卑弥呼を大切に思っている証として国中に知らしめよとあります。
さて、この魏書を読む限りにおいて、銅鏡が造られたのは景初2年かあるいはそれより前ということになります。
景初2年に渡された銅鏡の中に、景初3年に作成された銅鏡が入り込むことはあり得ないことです。
つまり、神原神社古墳で発見された銅鏡は、卑弥呼が魏から授かった銅鏡ではなかったということになります。
としますと、どういうことになるのでしょう。
魏書では、まだその続きがありまして、正始元年にも銅鏡が贈られたという記述があるのです。
では、その部分を見てみましょう。
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
正始元年とは、西暦で言うと240年にあたります。
景初2年は、238年ですから、2年後にまた詔書や印綬、そして様々な品物と併せて銅鏡も贈られているのです。
どういうことなのでしょう。
普通でしたら、この前も頂きましたのにまた頂くのでしょうか、それはそれは重ね重ねありがとうございますとなるところかもしれませんが、そんなことを魏が東夷である倭の国にしたのでしょうか。
そこで、文章をよくよく見ますと、大守が倭国に詣でて、『倭王』に詔書や印綬を奉じたとあります。
そして倭王は、上表文を渡し謝恩の礼を述べています。
さらに倭王は、同4年に返礼をしたとあります。
ここなのです。
この部分に、わが国の古代史の謎を解く大きなカギが残されていたと言っても過言ではないでしょう。
つまり、『倭女王』ではなく『倭王』なのです。
正始元年に魏が贈り届けた先は、『倭女王』ではなく『倭王』だったのです。
ですから、倭王にとっては2回目でもなんでもないので、しっかりとお礼を述べて、4年後には貢物を届けたということになり、話の辻褄が合います。
そうなりますと、魏書には、倭女王と倭王の双方に詔書や印綬、様々な品物と銅鏡が授けられたと記されていることになるのです。
日本書紀私記に北倭と南倭があるという認識が示されていますが、中国はこの列島には、大きくは二つの勢力があると考えていたことが伺われます。
景初2年に、倭女王が魏に使者を送り、貢物を届けました。
そして、同年12月に、魏は、倭女王卑弥呼に詔書や金印、そして多くの品々と共に銅鏡を授けています。
また、正始元年に魏は、倭国の倭王に同様に詔書や印綬、そして銅鏡も授けました。
一方、出雲の神原神社古墳で発見された銅鏡には「景初3年」の銘文が記されていました。
そうなりますと、卑弥呼に銅鏡が渡されたのは「景初2年」ですから、「景初3年」の銅鏡が卑弥呼に与えられることは不可能です。
そうなりますと、正始元年にも銅鏡が届けられていますから、当然そちらの銅鏡に相当するのではないだろうかということになります。
「景初3年」は「正始元年」の前年にあたるのです。
つまり、景初3年に作成された銅鏡が、翌年正始元年に倭王へ届けられたということになれば、全く問題は解消し辻褄が合うことになるのです。
景初3年の銘文の入った銅鏡は、卑弥呼ではなく倭王に贈られたものだということになるのです。
確かに、そう考えますと辻褄は合うのですが、本当にそうなのでしょうか。
また、卑弥呼の使者が魏に行ったのは景初2年と記されているが、実は景初3年の間違いだったのではないかという説もあります。
しかし、それは、あり得ないことです。
壹と臺についてのところでも触れましたが、国の公文書においてうっかりと間違って書いたなどということを前提にした論はあまりにも不見識と言わざるを得ません。
明確な意思を持って、そのようにあえて書いたと言える以外は、そのような間違いにもとずく推論はすべきではないでしょう。
さらに、景初3年の正月には当時の皇帝(明帝)が亡くなっているのです。
次に皇帝になった齊王は当時8歳で、後見人がついています。
1年間は喪に服して公式行事も行われないというような時期に行ったとするのは、どちらにしてもあり得ないとしか言いようがありません。
もっとひどい説になりますと、その年号の入った銅鏡は、そこに刻まれている銘文が稚拙だから、中国製ではなくこの列島内で造られた偽物だとまで言うのです。
どこまで疑えば気が済むのかと思ってしまいます。
偽物の歴史を造ってきたこの国にふさわしい発想だとは言えます。
だからと言って、他国の歴史まで偽物にすべきではないでしょう。
つまりは、『景初3年』の銅鏡の持つ意味がそれほど大きいことを逆に意味していると言えます。
それが明らかになると何か都合が悪いということなのかもしれません。
もう少し検討してみましょう。
景初3年に作成された銅鏡が、景初2年に卑弥呼の手に渡ることはあり得ないとなりますと、やはり、景初3年の翌年にあたる正始元年に倭王へ届けられた銅鏡こそが神原神社古墳で発見された物だったという方が妥当でしょう。
では、その倭王とはいったいどういった王だったのでしょう。
先の文章を見ますと、『詣倭国』とあります。
つまり、魏の使者が倭国に詣でるという表現を使っているのです。
魏書で卑弥呼に関わる文章中に詣でるという表現が出てくるのは、卑弥呼の使者が帯方郡に詣でるとか、最後、卑弥呼の次の女王である壹與の使者が魏の臺に詣でるとあるだけです。
卑弥呼が亡くなる前の抗争の頃に魏の張政等が派遣されたとはありますが、詣でるという表現は使われていません。
つまり、詣でるとは、仰ぎ見ることですから、魏の方から卑弥呼と卑の文字を使う女王国に対して詣でるを使うのはあり得ないことでしょう。
むしろ、詔書の中で、皇帝は、卑弥呼に対して『哀汝』を2回も使っているくらい哀れんでいます。
詣でるは、あくまで、卑弥呼の側から魏を仰ぎ見る立場で使われる言葉なのです。
ところが、一方倭国に対しては、『詣倭国』というように魏の使者がまるで倭国にある臺に詣でるというような表現になっているのです。
ということは、そこに出てくる倭王とは臺にいる王だったということが考えられるのです。
となりますと、これが所謂邪馬臺国だということになるのでしょうか。
臺にいる倭王となりますと、詣でるという表現が使われても不思議ではありません。
また、卑弥呼には詔書を報じるとありましたが、倭王には、詔書と印綬を奉じるとあります。
倭王に対しては、奉の文字をも使っているのです。
魏は、この倭王に対して、女王国とは違う見方をしているようです。
では、魏書に登場するこの倭王が邪馬臺にいる王だったのでしょうか。
魏書には、はたして邪馬臺国のことが記されていたのでしょうか。
しかし、魏書の何処にもこの列島に臺があるといったことは書かれていません。
ところが、この魏書に邪馬臺国を意味することが書かれていると中国の史書に載っていたのです。
そうです、それが、隋書に書かれていたのです。
先の隋書を検討したところでも見ましたが、もう一度隋書を振り返ってみましょう。
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
ここにあるように、都は魏志で言うところの邪馬臺を意味していると述べています。
魏志に出てきたのは、卑弥呼である倭女王と倭国の倭王でした。
この隋書以前のどの史書を見ましても、卑弥呼はあくまで倭の女王で、その国は女王国という表現しか出てきませんでした。
とすると、隋書が邪馬臺を意味していると指摘しているのは、正始元年に魏から使者が詣でたとあった倭国の倭王の居た所だということになります。
卑弥呼のいた女王国に詔書や印綬、銅鏡などが届けられますと、それは倭王にも知られるであろうことは魏も容易く推測のつくところです。
そうなりますと、この列島の臺であるところの倭国の倭王にも届けておこうとなったのではないかとも思われます。
また、朝鮮半島も制覇し、明帝の喪も明けて、年号も変わり新体制での出発をも知らせることも兼ねていたのかもしれません。
つまり、神原神社古墳で発見された銅鏡は、この邪馬臺国の王に届けられた物だということになります。
したがって、神原神社古墳には、邪馬臺国の王が葬られていたと言えることにもなるのです。

出雲で神原神社古墳から銅鏡が発見されて、それは卑弥呼から届けられていたのではないかという説もありましたが、それは不可能な事で、むしろその古墳には邪馬臺国の王が葬られていたとも考えられるのです。
でも、それでも、まだそうなのかなあという疑問もあるかもしれません。
ところが、その古墳からは他の貴重な物も発見されていて、さらに重要なことをも意味することになるのです。
刀剣、勾玉、そしてこの銅鏡なのです。
つまり、3種の神器と言われる物がそろって発見されているのです。
出雲は、たたら製鉄と刀の産地です。
また、出雲の玉造温泉は有名ですが、つまり玉造という地名が残っているように勾玉の産地でもあったのです。
そして、魏から授かった銅鏡。
3種の神器とは、実は出雲の王の象徴を意味していたのです。
出雲の刀と勾玉、そして魏から倭国の王として認められたという証の銅鏡。
この3種を持っている王こそがこの列島の王、つまり倭国の王であり、邪馬臺国の王を意味していたのです。
それが、その後の王にも引き継がれていったのでしょう。
3種の神器の中に銅鏡が加えられていたのは、それがこの列島の倭王としてのお墨付きだったということです。
つまり、3種の神器の原点は、この魏から倭王に贈られた銅鏡にあったとも言えます。
景初3年の銅鏡は、魏がこの国の邪馬臺の王として認めた証、今で言う身分証明書を意味していたのです。
そして、神原神社古墳の被葬者こそ、魏書に登場した倭国の倭王だとも考えられます。
神原神社のある大原とは、神の原とともに王の原をも意味しているのかもしれません。
従って、神原神社古墳から発見された『景初3年』の銘文の入った銅鏡こそが、正始元年に倭国の倭王、つまり邪馬臺国の王に贈られた銅鏡だったのです。
わが国では、銅鏡が4000枚ほど出土していると言われています。
その中で、三角縁神獣鏡と言われるものは約500枚ありますが、『景初3年』の年号が入った三角縁神獣鏡は、この神原神社古墳で発見された1枚だけしかなく、本当に貴重な銅鏡なのです。
そして、この銅鏡は、邪馬臺国が出雲を意味していた明確な証とも言え、大変大きな意味を持った銅鏡の発見だったのです。
だからこそ、この『景初3年』という年号の入った銅鏡が卑弥呼の鏡にされたり、偽物にされたりするのかもしれません。
出雲王朝を歴史からも地上からも抹殺してきた勢力からすれば、この銅鏡の真の意味が明らかになれば、記紀史観が根底から崩れ去ることになるのです。
彼等にしてみれば、絶対に闇に葬るしかないのでしょう。
そうしますと、この『景初3年』の銅鏡こそが、邪馬臺国としてこの列島を支配していた出雲王朝の存在を証明する『生き証人』として、ますます大きな意味を持つことになるのです。
是非ご参照ください
(小林須佐男氏著)
(2007年3月10日開館予定。神原神社古墳で発見された銅鏡が公開されます)