神紋 2

 いくつかの神社の神紋を見てきましたが、次に九州方面の神社を探ってみましょう。

宇佐神宮

 宇佐神宮は、聖武天皇が東大寺の大仏建立にあたり、国内での金採掘の宣託を受けたということでも有名ですが、道鏡事件など国を左右するほどの力もあった神社です。
 この、宇佐神宮には、一之御殿、二之御殿、三之御殿と所謂本殿が3社殿あるようです。
 その祭神は、應神天皇・比賣大神・神功皇后とあります。
 比賣大神とは、宗像3女神とも言われています。
 つまり、市杵嶋姫を意味しているとも言えます。
 そうなると、日御碕神社が思い浮かんできます。
 娘の市杵嶋姫を間にして、スサノオ尊と卑弥呼が両側に奉られていたと考えられるのです。
 市杵嶋姫は、出雲と九州の統合の象徴と言えるのかもしれません。
 あるいは、卑弥呼に代表される従来の青銅器文明あるいは農耕民族であるところの九州王朝と、スサノオ尊に代表される鉄器文明の統合を意味しているのかもしれません。
 そうなると、その祭祀を司る宇佐神宮が強力な力を持っていたということも十分に考えられるところです。
 では、ここの神紋を見てみましょう。
 三つ巴、五七の桐、十二八重菊とあります。
 三つ巴、五七の桐ということは、やはり出雲系であったということでしょうか。


 都農神社 都萬神社 

 卑弥呼の里かとも言われる日向国の一宮が、都農神社です。
 こちらの神紋は、非常に意味深です。
 ○の中に一なのです。
 つまり、神紋が一なのです。
 一は、市杵嶋姫や邪馬壹国に通じます。
 九州の勢力の象徴は、一に関系しているようです。
 そうなってきますと、三国志、所謂魏志倭人伝にも出てきましたが、使者がやって来る時にいくつかの国を経ていました。
 その中に、一大国とありました。
 また、一大率という強力な権力機構もあったようです。
 一が、邪馬壹国や市杵嶋姫を意味するとしたら、大は何を意味するのでしょう。
 もうお分かりですね、大は、熊野大社の神紋でもあり、『大国』という出雲王朝を意味すると考えられます。
 すなわち、一大率とか、一大国というのは、出雲と九州が統合した勢力を意味していたと考えられるのです。
 九州を中心とした先住民族と、それを征服した出雲の勢力の統合というのが、当時の姿だったのかもしれません。
 農耕民族と騎馬民族、青銅器文明と鉄器文明の融合の象徴が、各地に残されている神社なのかもしれません。
 さて、その都農神社の少し南に都萬神社があります。
 名前を見ると、何か関連があるのかなあと思えます。
 すると、そこには大変なことが秘められていたのです。
 都農神社の祭神は、大己貴命、つまり大国主命なのです。
 都萬神社は、木花咲耶姫、つまり女性の神なのです。
 木花咲耶姫といえば、ニニギ尊の妃であり、つまり妻です。
 だから、都萬神社のことが、妻萬宮とも言われています。
 妻なのです。
 よくよく見ると、この神社の住所も西都市妻です。
 そうなりますと、妻があるということは?
 都農神社に都萬神社、都農に都萬、都農に妻。
 お分かりになりましたでしょうか。
 都農に都萬、よく見ると、『殿に妻』と読めるではありませんか。
 都農神社には、出雲の大国主命が、都萬神社には木花咲耶姫が奉られています。
 つまり、元は、出雲の男神と九州の女神が奉られていたということになります。
 そうなると、九州と出雲の元祖殿と妻といえば、スサノオ尊と卑弥呼です。
 ということは、この都萬神社の近くに卑弥呼が葬られているとなります。
 魏志倭人伝に出てきました。
 卑弥呼が亡くなり、塚、つまり墓が造られたとありました。
 都萬神社の近くにそんな墓があるのでしょうか。
 西都市といえば、西都原遺跡です。
 西都原台地には、300を越える古墳群があります。
 では、そこに卑弥呼の墓と言えるような古墳があるのでしょうか。
 それが、あるのです。
 この列島最大の円墳があるのです。
 小さな方墳がついているので帆立貝式古墳とも言われています。
 円墳部の直径が132メートルもあり、文字通りわが国最大の円墳です。
 魏志倭人伝にも、その使者が大きさを測っています。
 『卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人
 『卑弥呼が亡くなって、大きい塚が造られた。その径は、百余歩。殉葬者は、奴婢100余人』ということのようです。
 つまり、卑弥呼の墓の直径が100歩より少し大きいと記しています。
 では、1歩が1.3メートル?
 ???、1歩が1メートルもあるのでしょうか。
 ところが、その1歩の計り方が今のわが国とは少し違うそうです。
 つまり、今、私達が1歩と言えば、どちらかの足をとにかく1歩歩み出すのを1歩と考えます。
 それ以外に何があるのかと思ってしまうところです。
 しかし、当時の1歩とは、どちらかの軸足を基本として、その足が動く範囲が1歩なのだそうです。
 すなわち、片方の足が動いた幅は、半歩というわけです。
 そうして計りますと、半歩が約60センチとしますと、1歩が120センチとなります。
 まさしく百余歩ということで、魏志倭人伝の記載とも一致します。
 また、その側には、その殉職者や副葬品等が埋葬されていると思われる古墳もあります。
 卑弥呼の墓発見!!!
 では、その墓が卑弥呼の墓とされているのでしょうか。
 今、その帆立貝式古墳は、男狭穂(おさほ)塚古墳と呼ばれていて、埋葬者にはいろいろな説があるようです。
 では、もっとよく調べたらいいのにと考えますが、ところがある理由でそれが許されていません。
 むしろ、周辺には柵がしてあって、立ち入り禁止とされているのです。
 何故なんでしょう。
 それは、明治28年(1869)に、宮内庁の管轄の下に置かれて、それ以来調査研究も含めて許可なく立ち入りが禁止となってしまったのです。
 それでも、最近、それも2006年5月ですから、本当に長い間調査もできなかったのですが、ようやく調査がされたようです。
 しかし、調査ができたといっても、レーダーを使った外郭部のみの調査で、中心の円墳部には未だに一切の調査も許されていません。
 どうして、そこまで頑迷に調査すら拒んでいるのでしょう。
 そもそも、今の宮内庁あるいは皇室と直接関係のある埋葬者ではありません。
 そうなりますと、その埋葬者や歴史の真実の一端が少しでも明らかになるということが、極めて都合の悪い事だと考えているという他ありません。
 逆に言えば、この墓が卑弥呼の墓だと分かっているからこそ、そういう対応になっているということなのでしょう。
 その柵に囲まれている古墳は、実は2基あるのです。
 卑弥呼と思われる男狭穂塚の横に、もう1基古墳があります。
 その古墳は、女狭穂塚と呼ばれ九州最大の前方後円墳なのです。
 もう、ほんのそばに寄り添うように2つの古墳が並んでいるのです。
 そして、2つの古墳とも柵で覆われていて、同じく立ち入り禁止とされています。
 帆立貝式古墳が卑弥呼の墓であれば、確かにそれを秘匿しようとするのも分からないでもありません。
 つまり、奈良大和に卑弥呼の墓があると言っている人たちにとっては、根底からその根拠が失われることになります。
 引いては、大和邪馬台国説も崩れ去ることになるのですから、必死なのは理解できないわけでもありません。
 では、なぜ隣の古墳までも、囲っているのでしょう。
 西都原古墳群には300を超える古墳があるというのに、何故この2つだけを?
 さて、それが何故か、2つの古墳が寄り添うようにあると聞いて思い出しませんか。
 そうです、八重垣神社にあった壁画です。
 そして、日御碕神社にしても卑弥呼と市杵嶋姫は対のようにいつも一緒に奉られています。
 つまり、卑弥呼の墓と思える男狭穂塚古墳の横に寄り添うようにして造られている女狭穂塚古墳は、市杵嶋姫の墓と考えられるのです。
 となると、さらに思い当たるのは、卑弥呼の死後新たに女王となったのは、壱與とありました。
 男王が立っても、抗争が起こり、壱與が女王になって争いが落ち着いたとありました。
 それは、すなわちスサノオ尊と卑弥呼の娘であったからでしょう。
 すると、壱與は、市杵嶋姫だとなるのです。
 壱と市、一が共通しています。
 中国の史書に登場した壱與は、実は各地で奉られている市杵嶋姫だったということになります。
 そして、中国は、後に壱與を臺與つまり豊に変えてしまいました。
 母であるところの卑弥呼の墓が円墳であるのに、どうして市杵嶋姫も同じように円墳で葬られなかったのでしょう。
 ここにも、大きな謎がありますが、しかしここにこそ前方後円墳の謎を解き明かすカギが秘められているのです。
 つまり、母であるところの卑弥呼は九州王朝の象徴とも言えます。
 九州の古墳は、円墳が基本です。
 つまり、中国の影響の強かった九州では、円墳で埋葬されていたのです。
 一方、父であるところのスサノオ尊の出雲における特徴的な埋葬といえば、方墳です。
 妻木晩田遺跡でも有名になりましたが、4隅突出型古墳と言われています。
 つまり、スサノオ尊と卑弥呼は、出雲と九州の統合をも意味します。
 その娘であるところの市杵嶋姫は、まさしくその統合の象徴的存在であります。
 出雲と九州の統合の落とし子と言ってもいいかもしれません。
 そして、それは、後の婚姻の有り方にも影響を与えているかもしれません。
 では、その市杵嶋姫が亡くなったらどう奉られるのでしょうか。
 母の側でというのがいつの時代も考えられるところではないでしょうか。
 そして、その墳墓の形態をどうするのかということになりますと、円墳にしますと出雲の勢力から異論が出るでしょう。
 方墳にしますと、九州の勢力からも異論が出ることは十分に考えられます。
 すぐに激しい抗争に繋がる時代ですから、双方の納得のいく埋葬の方法として、円墳と方墳を繋げるという発想がそこに生まれたと考えられるのです。
 つまり、前方後円墳は、出雲と九州の統合の象徴ということになるのです。
 おそらく市杵嶋姫が最初の頃の前方後円墳だったのではないでしょうか。
 その後、出雲と九州の統一勢力は製鉄を基本として、大きな発展を遂げることになるのです。
 後の倭の5王などは、その最も大きな力を持っていた頃の王ではないでしょうか。
 ですから、彼等は、宋書にあったように朝鮮半島へも進出していたので、朝鮮半島にも前方後円墳があるのです。
 あるいは、その中でも、中国の史書にたびたび登場する倭王武の墓が、所謂仁徳天皇稜と言われている日本最大の前方後円墳なのかもしれません。
 古代の頃から今の時代にまで続く神社には、まだまだ多くの隠された歴史が残されているかもしれません。
 その貴重な遺産を大切にし、歴史の真実が解明されて、記紀のような創作された歴史ではなく、より史実に近いわが国の歴史が構築されていくことを願うものであります。
 
  


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