卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった

 宋書に描かれている『邪馬台国』
 使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王
 魏書には、卑弥呼が邪馬台国の女王を意味するような記述はありませんでした。
 邪馬台国そのものが記述されていたのは後漢書でした。
 そこには、大倭王が邪馬台国に居すると明確に述べられていたのです。
 しかし、一方では、『自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王』と、卑弥呼のいた女王国は九州に
限定され、それより東にも国はあるが女王国には属していないと、邪馬台国の大倭王とは明らかに異なる認識が記され
ていました。
 つまり、この列島には百余国の国が存在していたものの、大倭王のいる邪馬台国と卑弥呼に代表される九州地域
限定の女王国というこの2大勢力が列島を制覇していた、というのが当時の状況だと考えられます。
 そして、南朝宋の史書が、後漢書からおよそ50年後の488年に完成したとされています。
 その宋書には、後漢書に描かれていた大倭王の姿がさらに詳しく記されています。
 では、その宋書を見てみましょう。

 倭國 在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰 「倭讃萬里修貢、
遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、 讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、
弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓
六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

 宋書には、倭の5王と言われる『讃、珍、済、興、武』についての記述があります。
 それらの王は、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王』などと
称していたとあります。
 つまり、後漢書で倭王の武帝が朝鮮半島をも制覇していたとする内容とも一致します。
 ということは、実は倭の5王とは、邪馬台国の大倭王を意味していたことになるのです。
 台とは、『臺』であり、皇帝の居する都を意味していました。
 この列島のみならず、朝鮮半島の諸国をも支配下にするほどの帝国を築いていた倭王は、まさしく皇帝であり、その皇帝の
居するところは『臺』となり、その地こそがこの列島の都であるところの邪馬台国なのです。
 その武王が、宋の順帝に上表文を送っていて、その文章も記録に残されています。
 
  順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]
甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九
十五國

 
 武王が、昇明2年(478)に、宋の順帝へ送った上表文では、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を
駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』といったことを述べています。
 つまり、3世紀から5世紀に皇帝と見なされるほどの大きな力を持つ勢力が出てきたのは、この倭の5王の勢力だったのです。
 それは、同時に邪馬台国の王をも意味していることになります。
 その上表文では、さらに、高句麗を討つ様に奨めています。
 倭王は、朝鮮半島まで勢力を延ばしたものの、高句麗と対峙していたようです。
 これは、好太王碑に記されている記述とも合致します。
 今までの史書には、卑弥呼の女王国について触れられていたのですが、この宋書においてはまったく記述がありません。
 この頃には、もう消滅していたのかもしれません。
 少なくとも、史書に登場するほどの影響力のある勢力ではなかったということでしょう。
 かなり、卑弥呼や邪馬台国の実像がつかめてきました。
 しかし、邪馬台国の場所は、どこにあったのでしょう。
 卑弥呼たる倭女王ではなく、倭王こそがこの列島の覇者であり邪馬台国に君臨する大倭王であったというのが実態だった
と、中国の史書を検討する中で明らかになりました。
 その後、大倭王はどうなったのでしょう。
 後に書かれた隋書にも、この列島の大倭王が登場します。
 次は、その隋書を検討してみましょう。

(4)

    

          

(1) (2) (3) (5)

ホーム 出版部  会